【新約聖書研究の内容】  元ベテル聖研顧問 杉田常夫

◆第1課「時満ちて」

時が満ちるまで、神は何事もなさらなかった。アレクサンドロスの東征、ギリシャ文明の普及、ローマの統一と平和、道路の建設、へブル人の伝統と人々の霊的混乱などが、キリストの来臨のために世界を整える歴史的事件と状況となった。まさに時満ちて救い主は来られた。



◆第2課「言は肉体となって」

イエスはだれであるか。優れた教師、道徳家、友なき人の友、革命家か。ある意味でそうである。詐欺師か、それとも「言は肉体となって、わたしたちの間に宿 られた」まことの神であったのか。イエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」と、自ら主張されたとおりの方であった。イエスはまことの神であった。


◆第3課「まことの人イエス」

わたしは一体だれで、何のために生きているのか。人間イエスを見てごらんなさい。イエスは時間と空間の中に存在する歴史的な人物で、神が意図された通りの まことの人であった。イエスはアダムに与えられたすべての資質をもっておられたが、アダムが認めなかった真理を認め、神への従順を貫かれた。イエスの人間 性は、「成就された人間性」であった。


◆第4課「律法の曲解に対する抗弁者イエス」

律法は天の父から与えられた宝であって、正しく用いられるならイスラエルの信仰あつい人 たちに多くの祝福をもたらすものであった。ところがイエスが来られたとき、律法の誤用による冷酷な律法主義が横行し、父祖たちの伝承と分離の教えが曲解さ れているのをご覧なって激しく抗弁された。


◆第5課「教師イエス」

人はこの世界の秩序と法則を観察し認識できるが、この世界を形づくられた創造者の性質、目的、意思に関しては、神が啓示されないかぎり殆ど何も知ることが できない。神からの教師イエスは、天地の創造者の意思と目的、また人間の本性と目的を啓示され、神とつながっている人が受け継ぐ祝福について教えられた。


◆第6課「救い主イエス」

自己満足している人たちにとって、救いは全く無関係であり意味がない。救いは失敗した人たちのものである。イエスは罪過と罪責感から、悪の脅威と力から人 間を救われる。また霊的な死、現世の死、永遠の死から人間を救われる。神は歴史的な過程の中で、被造物全体を救い贖われる。


◆第7課「暗黒の中に輝く光」

全地を包む暗黒の中に、世を照らす光として贖い主が来られた。ある人たちはこの光を歓迎したが、罪深い 人々は神の光を見て激昂し、ついにキリストを十字架につけて殺してしまった。しばらくの間、暗黒が勝利を占めたように思われた。しかし、そうではなかっ た。カルバリの丘の悲しい知らせは、空の墓と言う喜ばしい知らせに変わった。十字架はキリストの王座となった。


◆第8課「空になった墓」

死は避けがたいものである。すべての生けるものは、死の時を迎える。その時どうなるのか。神はキリストの復 活において、全世界に対して次ぎのように証言された。死のなわめはすでに打ち砕かれており、地上の死は墓のむこうにある命への入り口に過ぎないと。キリス トはよみがえられた。死は征服された。 われわれは今も、そしてとこしえまでも生きる。


◆第9課「主なるキリスト」

「あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」。使徒行伝は、この命令に従順であっ た人々の記録である。この記録は三つの部分に分けられる。第一、エルサレムにおける証言。第二、ユダヤとサマリヤにおける証言。第三、地の果てにまで及ぶ 証言。


◆第10課「復帰運動」

キリストによって人間の救いが完成されたという真理が宣言されたとき、信徒たちは三つの障害と戦わなければな らなかった。それらは、救いは自分の手で達成できるという当時の哲学的仮定、誰の前にも全くの負債者として立つことを許さない人間の誇り、すべてのよいも のは代価なしに手に入らないというわれわれの経験である。復帰運動はユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者と、キリスト教に反対する熱心なユダヤ教徒か ら起こった。これに対して、ガラテヤ人への手紙、へブル人への手紙、ローマ人への手紙はどのように発言したかを見ることができる。救いは、キリストを通し てのみ与えられる。


◆第11課「義認」

聖書は、義なる神が不義なる人間を、その永遠のみ前に受け入れないと言う。神が要求されるような義を持っている人は、ひとりもいない。神がわたしのために行動されない限り、わたしは罪に定められた人間である。 しかし、聖書は罪人の状態を変えるために、神が行動されたと主張している。人は、人間的知恵、律法の行い、理想主義やよい意図、人間的な努力によっては義とされない。神が人間のためにしてくださった十字架の贖いによってのみ義とされる。


◆第12課「信仰」

神が宣言される真理の多くは、論理ではなく、信仰によって受け入れられる。信仰によって理解が深められ、宝が受けつがれ、祝福が得られる。また神に対する責任がになわれ、恐れや失意がやわらげられ、さらに奇跡が行なわれ、劇的な勝利がかちえられる。 成熟した信仰は、知識と同意と信頼が共にあるときに生まれる。それは神の賜物である。


◆第13課「テサロニケ人への第一と第二の手紙」

パウロは第2伝道旅行途上で、テサロニケに滞在する間に、新しい教会が建設された。 しかし、間もなく始まった迫害のために、この教会をあとにした。そして、教会の状態を知るためにテモテを派遣した。テモテからの報告を受けて、二つの手紙 を書き送った。 第一の手紙では、迫害の中での彼らの忍耐を賞賛した後、使徒の行動に対する誤解を解き、性的不道徳を戒め、再臨を期待して怠惰な生活をせず、指導者を重ん じるよう勧告した。続いて、第二の手紙を送り、迫害の中での彼らの勇気と忍耐を賞賛し、主はすでに来たという偽りの教えに惑わされないよう勧告した。そし て、再臨の時期と場合を心配して、怠惰な生活をしないよう命じた。


◆第14課「コリントの第一と第二の手紙」

パウロは東西の主要な通商地コリントを訪れ、悪に打ち勝ったキリストのメッセージを伝え、そこに教会が誕生した。パウロは教会を去った後、絶えず手紙と訪 問によって教会を導いた。 第一の手紙では、福音よりもそれを伝えた人々を重んじる危険を戒め、十字架の言葉よりも人知を不当に強調することに抗議した。教会内の不品行と、信者間の 訴訟に反対した。キリスト者の生活に関する多くの質問に答えた。キリスト者の独身と結婚生活、偶像にささげた肉を食べる自由、主の晩餐のふさわしい守り 方、復活の体についてなどの質問答えた。第二の手紙では、使徒に向けられていた非難に対する弁明とともに、神の恵みはあらゆることに十分であると語り、キ リスト者のささげものの動機と態度について教えている。


◆第15課「教会」

神がアブラハムと結ばれた契約の民イスラエルは、イエスの誕生によって新しい契約の共同体となった。教会は神によって生まれ、育てられ、養われている、ア ブラハムに与えられた使命に仕える人々である。教会のかしらはキリストであり、教会は神の意志と目的を宣言する神の代理者である。神のあわれみの配達人、 神のゆるしの複写機、神の愛の媒介者、神の正義の具現者として、キリストの使命を継承する。


◆第16課「テモテへの第一と第二の手紙」

使徒パウロは愛弟子テモテに、励ましと忠告を与える二通の手紙を送った。第一の手紙では、祈りと純粋な礼拝を土台として御国を建てなさい。教会の指導者を 注意深く選びなさい。偽りの教えと戦いなさい。模範によって説得しなさい。年長者を敬いなさいと勧めた。牢獄から送られた第二の手紙では、真理をしっかり と保ちなさい。キリストのうちに、あなたの力を求めなさい。キリストの良い兵卒として、苦しみに耐えしのびなさい。二心なくつとめて励み、忍耐づよく、寛 容でありなさいと忠告した。


◆第17課「ペテロの第一の手紙」

キリスト者は義のために苦しむことによって古い性質を脱ぎ捨て、悪に対して抵抗するように召されている。彼は艱難がやってきてもそれを喜び、この世にあって生ける希望をもつように、新たに生まれたのである。


◆第18課「偽りの教え」

ギリシャ的な二元論に立つ人々は、キリストを人であると同時に神であるとする信仰を愚かな教えとみなし、キリスト教を一種の「高等な知識」(グノーシス) とする誤った教理を教会に持ち込んだ。これに対して、パウロは獄中からコロサイの教会へ手紙を送り、キリストのうちにはすべての知恵と知識がかたちをとっ て宿っていると主張した。ユダの手紙、ヨハネの第一と第二の手紙、ペテロの第二の手紙、ヤコブの手紙でも、二元論を背景にした教えとその実践が非難されて いる。


◆第19課「聖化」

義認は神の前に罪人の地位を変化させるが、聖化は時の経過の中でその人自身を変化させる。本来あるべき姿に造りかえられる。それは聖霊の働きである。規則正しい礼拝出席、み言葉の学び、他の信仰者たちとの交わり、日々神と交わる祈りを通して実現される。


◆第20課「再臨」

(スイガム博士は、この課のテキストを執筆されませんでした。教師ご自身で、作成するようにしてください。)